庭はきれい、手は日焼け

26日のきょう、晴天。午前、3ブロックに手書き用配布。午後、1ブロックに手書き配布に回るが、時間的に不在多し。

夕方から、また3ブロックを回る。帰ると、1軒だけ電話の問い合わせ。3ブロックだけは2軒をのこし何とか完了しそう。読書と出入りの繰り返し。末日まではこんな感じになりそう。いまは夕暮れがはやい。書類を読むのに、6時で電灯が必要。

 

朝、入院中の彼女から電話。私がお見舞いに持ち込んだ葡萄で患者間にトラブルが起きたとか。難しい。うっかり差し入れはできないようだ。私が行くことで、スタッフが大変なのかもしれない。しかし、友達の気持ちを思うと、無視してしまうことはできない。ほんとうに難しい。

 

小姑さんから大福を頂いたがいらないかとの電話。甘いものは……と思ったが、調査の合間に受け取りに。有難くいただいて友人宅に届ける。

 

静岡の義姉宅より、私の声で着信があったと。しかし、私は電話はしていない。人違い。

 

随分と手が日焼けやらで黒く。綺麗な手じゃなくていい。綺麗な手で庭仕事ができようはずがない。綺麗な手は、白く美しい手を守る人たちに任せる。

 

 

 

神はわがやぐら

25日はゴミ当番。終日、読書に厭きれば草取り、草取りに厭きれば読書を繰り返す。
火曜日は、あの人、この人が動く日だろうと。神が私をここに留めておいてくださったのだ。息子の選んだ賛美歌を別ブログにアップしておいた。
市の仕事をしようと、ネット回答を問い合わせるも、ずっとふさがっていて、確認ができない。何ということだ。やる気が失せて翌日に

 

いまクラシック倶楽部、これは26日の今日だが、戸山俊樹のブラームスの歌曲、バスだ。歌詞には若干齟齬を感じる。

東京混声合唱団。久方ぶりの飯森範親だ。宗教改革は1517年、「カンタータ神はわがやぐら」随分古い話だが、勇気あるルターという人物がいたのだ。孤独な中に、新約聖書を翻訳する。

 

きょうは本当に市の仕事をまじめにやらなければ。

後でわかることがある

23日(日)は、ああきょうは教会の花の係だなと、30分早めに出てビックハウスで花を買う。朝、歩きたかったが、家周りを掃除。教会は昼で終わる。午後は終活の続き。買い物へは行かなかったはずだ。買い物へは行かないが、市立図書館から借りていた本がとっくに期限過ぎ、それも2か月も。月曜は休館と思い込み、やはり今日中に返さなければと行ったところが、「明日は開いています」。秋分の日からだろう。その後は2日まで休館となるようだ。児童図書の方へ行き、子供用の本を3冊ばかり読む。5時帰宅。

 

夜に長男から電話。「不思議なことがあった」と。聞くと、讃美かが心に流れてきたので、ネットからダウンロードしたよ」と。「何時ごろ?」と訊くと「昼頃」。こういうことは、書き留めておくと後でその意味が分かることがある。

 

きょう24日、休日。縁側でコーヒーを飲んでいると、庭を見ているうちに草が気になる。午前草取り。そして終活の続き。どんどん処分。今朝は不燃ゴミの日だったが、食器類や、昔の大きな甕を二つ出したが、持って行ってくれた。思い切って舅姑のものも処分。いるものは、もう亡くなった時点で小姑さんふたりに、欲しいものはとにかく自由に持って行ってもらったので、使えるものというのは無い。明日は可燃ゴミ、出せるだけ出して身軽になろう。もう何もいらない。極端には3食の食器とパソコンと最低限の衣類があればよい。要らない。何も要らない。

 

昼近く、主人が、墓参りして、競馬を見に行こう、というより馬を見に行こうというので同行。なんでも見ておこうとのつもり。とはいうものの、自分からは出かけようという意欲、意思が希薄になっている。誰かが提案したら、それに同行といった感じ。ちょっと疲れてるかな。この時期が終われば、民生を交替すれば、また意欲が湧くかも。月2回の原稿を書くことで何とか自分を保っている。

天気もそれほど照ってはおらず、競馬場の木立は紅葉できれい、青空もイワシ雲。馬たちは輝くように美しかった。帰りは山岸生協に立ち寄り3時帰宅。買った魚をすぐに調理、マリネにする。また草取り。

 

きのうきょうと権三ホールのT子さんの真摯なすがたがしきりに浮かんだ。私よりも年上かもしれない。

しかし、私がどこかへ行けば行ったで、また誰かが、一報を入れるのだろうなという気もした。気にしないようにするよりほかはない。

嘉藤治の家の前に立つ

久方ぶりの朝寝坊、気づけば8時少し前、飛び起きて8時半に近所のMさんが迎えに来るのに間に合わせる。半に外に出てみると、彼女がいない。こちらから行くのであったかとすっ飛んでいくと、彼女が運転席で待っていた。きょうは運転してもらうので、気分的に楽だった。9時40分に紫波中央駅。そこから、とっこ舎の方の車に乗り換え、嘉藤治の家に。N氏の説明方々、家の前に立つ。書斎を最後の見学ができるという事であったが、何らかの事情があったのだろう、予定変更、叶わなくなった。非常に残念ではあったが、主催者側も、ちょっと困っていたふうだったので、特に質しはしなかった。嘉藤治の家の隣にある花壇が傾斜地に広がっており、とてもよかった。ラ・フランスで昼食を摂り、オガールのレコードコンサートへ。受付を手伝っているときに、同期会のKさんから電話あり。外部からは入らないはず、主人かと思って出たところが、高校同期会のKさんからだった。彼女には番号を教えていたらしい。何れまた集まってクラス会の相談をするのだとか。会場の設置もすこし手伝う。レコード、解説ともに大変よかった。この同好会の皆様の温かさに感心。突然、司会の方が、私を記事とともにご紹介くださり、関連の歌を2曲を皆さんで歌ってくださったのには有難いとともに恐縮してしまった。レコードコンサートが終わった後に、権三ホールに立ち寄り、有志の方々と歓談。実はエルマンのレコードの写真を撮りたいという魂胆だったのだが、ここにはないのかもしれないなと気づき、そのまま皆様の話に耳を傾ける。よい熱心な方々、ずっと嘉藤治の顕彰を無私で続けて来られた方々だ。素晴らしいことだなと思う。自分はどこまで、いつまで、今やってゐることを続けられるかは自信がないし、熱心さが若干欠けているなと思わせられた。5時半に舎を後にし、6時20分頃帰宅。そして夕食準備。きょも、きのうと同じく咳が出て困った。ちょっと辺りに迷惑だったかも。

賢治・嘉藤治のこだま朗読会

21日、賢治の命日のきょう、朝のうちにすこし多めのゴミを集積所に出したが、ぜんぶ引き受けてくれたもよう。座布団や籐の花生けなど、とにかく燃やせる製品といったものを出す。

午前中は草取り。花を埋没から救出。11時半に賢治詩の朗読、近所のMさんが聴きたいということで、外出は明日に集中させようと思っていたのだが、きょうも彼女に付き合うことに。初めてお会いするHさんの温かさがわかった。とにかくMさんが喜んでくれたのでよかった。3時間の朗読はちょっと長かった。咳が出て困った。長引きそう。薬をのんだからといって治るものでもないという気が。花巻では賢治祭があるだろう。4時に終わり、産直で買い物をし、5時には帰宅できた。

 

Aさんに明日の文学クラブの欠席を伝える。

 

明日はMさんの車で行く。彼女の方が運転は慎重だ嘉藤治の書斎訪問。最後の公開になるという。あすは一日がかりだ。

カボチャの解体

はや20日、木曜日。健康維持に歩こうと6時近くに家を出る。ひと町向こうの知り合いの方に話しかけられ、それが30分という長さ。スーパーに散歩がてらに返してこようとパックを下げて来たのだが、片手にしたまま話に聞き入る。もっぱら聞き役。割って入る余地はない。歩く時間は短くなるが、それもいいかと。ずっと決まった時間に掃除をしておられる。

すっかり終活づく。勢いに乗って進めようと、主人は畑に出かけたが、押し入れの衣類を分別。カーテン類を廃棄することに。シーツ類は切って鍋ふきやら油拭きやらに。戸棚の食器もできるだけ廃棄。綺麗だと思って取っておいたびん類も思い切る。取っておいたとしても何れは捨てられる命運に従うだけの代物。人がひとり終わるというのは、こういう事でもあるなと。随分と大量のゴミが。ゴミ集積所に出すのは気が引ける。クリーンセンターに自分で持ち込んだほうがいいかも。がんがんとゴミをポットに投げ込むのだ。ついでに自分も飛び込んでみたら、いっそ世の中がすっきりするかなどと考え笑ってしまった。片付きましたよとでも言って、私に消えてほしいと願っているあの人この人を安心させようか、ここまで出かかり、冗談がきつ過ぎたかなと折り返す。

どんどん身の回りを軽くする。家の重みがぐんと減り、敷地もほっと息をしているような。

午後は民生の動員。小物づくり。けっこう楽しかった。同じものを同じ材料で作るのだが、十人十色の個性がはっきりと。相変わらず保守を打ち破れない作品、自作がそれだ。

帰宅して草取り。5時ちょっと過ぎまで。

大きなカボチャを解体。蒸し揚げる。

終活2

毎朝歩くことが肝心なのだけれど、今朝はおとなしく。きのうは備忘録を書かないでしまった。午前は9時半に間に合って、胃の内視鏡。たぶん異常なし。

帰宅して午後から、また終活。姿見を処分。リサイクルセンターに、大量の食器類、昔の七輪、棚、ジンギスカン鍋、その他の鍋類、その他、不燃を90キロ、昨日も90キロだったが持ち込み廃棄。投げ込まれ。ひしげ、微塵に砕け散る有様は壮観、なぜにこれほどに人はものを買い込み、我が家などは買い込むほうではないのだが、かくいう私自身は、結婚以来「あなたは本当に物を欲しがらないね」と驚かれたのだが、それでさえも、物が溜まり、そして舅姑の分がものすごい。限りある資源を結局は捨てることになるのだが、人は使い尽くしては捨て去ることを繰り返し、地球を破壊することに貢献して死ぬのだとさえ思われてくる。

一番厄介なのは、使い残した塗料、薬剤、洗濯用剤。水に流すと環境汚染になる。しかし敷地内にこぼしたくはない。

かくして小屋はがら空き。開いたスペースに棺桶を二つ買おうかと笑った。それも市産材で作ったものにしようかと。

きのうの分を今書いているが、先ほど、4時半に、新聞が投げ込まれる音がしていた。たぶん3時起きか、ご苦労様だ。昨夜早々と就寝、その分今朝はやけにはやく目が覚めてしまった。