山積
昨日11日は、お一人暮らしの方々のための食事会の準備、対応に動員がかかり、9時から3時まで拘束。手品、ワラビ汁付きお弁当に皆様の笑顔。
そのあと、紺屋町にできた書店と、そのあとスーパーへ。
朝のうちに地域のお誕生祝品を届けに伺うも、不在。この何度も足を運ばなければならないことには、いつも悩まされどおし。
きょうは新聞社に送る原稿を書かねば。何とか仕上げて、次の原稿に入りたいのだが、民生の仕事が山積。これも訪問の仕事だ。
先ほど、TV,トランプ、ジョンウンの会談に入る前の記者会見のもようをを15分ばかり。
大忙し
備忘録、8日から書いていなかった。8日は、庭のようすを見たり、あとは、午後に小説教室に行くまで、ぎりぎりまで、1600字の宿題を書いていた。なかなか字数がすくないと、まとめるのが厳しい。思えば、新聞、800字によく書いてきたものだ。
午前中は、地域で生まれた方の贈り物を買いに。
とても実りある学びだった。講師の奥様がいつもいらして、後ろに座っていてくださるので、ああこれで妙なことを言われずに済むと安心して講義が受けられる。終わってからも丁寧に心から感謝を申し上げることができた。奥様も快くそれを受けてくださった。充実感が得られた。帰りに、姉のところにすこし立ち寄る。ペットの犬が、とてもおとなしく聞き分けがよく、大人になったなと。やんちゃな時期というものがあるようだが。まっすぐに帰宅。それでも夕方5時近くになってしまった。
午前中、草取り真っ最中に、入院中の友達から電話。彼女から来た時には、絶対に遅れないように、自分からはきらないように心がけている。なかなか辛い思いもしながら過ごしているらしい。退院したら教会の祈祷会に行ってみたいと。神様を信じ、いつもお祈りしているというひとことには、こちらが励まされた。感謝感謝。
9日きょうは、午前教会。午後3時までバザー準備の奉仕。いくら忙しいからと言って人数が少なく、自分ばかりが逃れるわけにはいかない。朝5時から、何やかやと動き回っており、作業の最中に眠くなってしまった。それにしても、T姉妹が心配。
夕方、長橋町のSさんから電話。バザーがいつかと訊いてくださった。
あと書き落としたことはないか。まだきょうは終わってはいない。夕方多くの時間を主人が収穫した野菜の整理に費やしてしまった。近所にすこしお分けする。とても食べきれない。
明日は明日で、朝9時から地域行事で動員がかかっている。これは一日がかり。多分帰りは夕方5時ごろになるだろう。
今夜は、何としても資料をよまねば。
こんどの教室、30枚原稿は出したい。すこしでもまともな1600字も書きたい。血圧と視力が持てばいいが。
伝道会のチラシを関係者に手紙をつけてご案内しなければ。北海道の小さいちゃんたちにもお返事を物語ノートをお送りしなければ。
まだ、地域の方にタンジョウプレゼントを一つ届けていない。140人の方の訪問の仕事もある。できるだろうか。
保険付きの代車で何とか
朝8時から民生の仕事。5軒の訪問と説明など完了。
外回り掃除と洗濯で午前は終わる。午後は、新聞の原稿用の資料読み込みがある。
きのう北海道から、またKちゃんの新しいお話ノートが届く。
きのう小姑さんにお中元を届けてもらう。
きょう、保険付きの軽の代車が届くはず。
長男は事業の立ち上げでパンク寸前だという。次男は新しい友達の会社にきょうも出勤しているはず。
推敲
6月3日、午前教会。午後教会行事で八幡平わらび取り。マルイチ駐車場にバイクを置き、教会のYさんの車に乗せていただく。
疲れていたが、Aさんからいただいた木灰で蕨処理。
6月4日月曜日は、午後は民生の定例会議。3時半終了。若干疲れて帰宅。次男が顔を出したので、たまたまあったヤキウニや冷凍の肉、魚を持たせる。夕方、長橋台のSさんから、肺がんが大きくなっていなかったとの報告。昼には入院中のTさんからも電話あり。
4日のきょうは、午前中、近くのT子さんと美容院へ。
昼食は自宅。
真夜中3時に目が覚め、4時半まで、こんどの文章教室にもっていく30枚原稿の推敲。宿題の4枚原稿も何とか書かねばならない。
天の配材
2日、土曜日のきょう、すばらしい天気。
クルマを修理に出す。保険のついた代車を借りられるらしい。
主人は、農業講座を受けに、東北農試に。きょうが平日とちょっと勘違いし、R子に電話をすると、きょう盛岡に出て映画を見るのだとか。
朝から庭の整備。10時にPC開く。ブログを3件あけて、その一つに、ああ、最初の予測通りだなと。たぶん、世界の果てまでも行くのだろう。次はフランスか、ロンドンか。しかし彼女が、どれほどに助かったかがわかる。天の配材というものかもしれない。片や何事も苦しみながら苦しみぬいて生きるのが私の人生の真骨頂と理解する。
私はやはり、神をないがしろにはできない。そして、私のために誰かが切に祈っている。それで、いつもすんでのところで道を外さずに済んできたように思う。
N・Sさんが言った「正しいものが苦しめられる」、私は立派な正しいものであるかどうか、それは、キリストの血の贖いによる義によって正しいといえる。とにかく私は祈られている。多くの人々によって。たぶん、私が顔を知らない多くの人々にも。