人生、たぶん、こういうもの

11日、日曜日は、朝5時に起き、別ブログの更新。朝のうちに、文芸誌用の原稿送信。返事はまだ来ない。

10時に一緒に教会へ行きたいという方がいるので、いらっしゃるのを待って、教会へ出発。午後は包帯づくりにものこり、帰宅は夕4時になってしまった。

 食事準備、食事、後片付けに、どうしても2時間はかかる。3度で6時間。

 病気の姉に、長くかかる病気であり、良い家族はついているのだが、月に一回も行かないのに、教会へは週2回。神のこととはいえ、疑問。牧師は集会をまもるようにと勧める。神第一とすべきと説く。これが習慣づいてもいるのだが、週2回出かけて、あとは出かけることを主人に遠慮して、ほとんどコンサートにも行かず、講演にも行かず、人の為に、地域のため。

 ごくたまにランチ、それも、自分のためではない。これも一つの生き方で、それなりに楽しむことはできるのだが、自分のために、ということがない。これが、わたしの人生で、私自身がこうしてしまったともいえるのだが。

 人の為に生きよとする教えもあるわけで、これでよしとすべきなのだろう。ただ、いまとなって、何か惜しむような気持がないではない。

 ただ、何であれ、いま書ける機会がある、これは何にもまして有難いことであり、これがあるなら、不平はいうべきではないともいえる。

苛酷で冷酷

比較的温かい一日だった。

午前は3詩人の本や知道の本を読む。露風がいいかな。雨情は、有名だが、私との相性はいまいち。

自分の好きな詩人を詳しくやる時間はなくて、自分が共感の浅い詩人の方を、必要に迫られてほじくっているという感じ。まあ、それも、次につながる事がある場合もあるので、よしと。

午後2時過ぎ、すこし歩いてきなさいよ、と言われて、T子さんに電話すると、歩きたいと。わたしと一緒でないと、自分一人では歩くという行動を起こすことが難しいと言っていたが、最近になって、これが私を喜ばせようとかいったセリフではなく、事実そのままかもしれないという気がしている。銀行に行く、病院に行くしか、彼女が外出したというはなしを聞いていない。これから先がちょっと心配。夕方4時半帰宅で、ちょっと早めの食事。あとは原稿とピョンチャン。

いのちを掛けて頑張っている選手たちに、なぜに、金銀銅というのか、全員金メダルの資格があるというのに。競技とは、苛酷で冷酷なものだ。

ピョンチャン今日から

午前、ふたり、食事会キャンセルあり。

朝の6時には、ポストに新聞が入っている。氷点下8度の朝も。

福井方面の大雪、6倍、これでガソリンが尽きたらどうなるのか。

午前家で、原稿ちょっと。

午後、ユピアス入浴。主人は水泳。椅子の方で読書。夕方4時帰宅。行く途中、スーパーに、たまった新聞、ダンボール、トレイを出す。スーパーの職員は仕事ばかりが増える。資源回収、後始末、大変だろうなと。小屋は片付いたけれども。

寒いからと言って休まずに終活を続けねば。

まもなくピョンチャンオリンピック開幕。

スポーツ交流があり、非核運動が平和賞になっても、軍拡はどこ吹く風、人の平和への願いは、声は、署名は、霧よりもはかない。

真摯な創作のひとたち

備忘録は毎日と思いながら、きのうは更新しないでしまった。

いちにち家の中。

こんどの地域の方々の食事会の出席状況、それに、当日の天気が気がかり。何かを計画するたびに、こんなことが心労となる。怪我がなければいいが、交通事故に遭わなければいいがと。20人も集まるとなると、もし災害がふりかかったらと、重たいものがある。あとは神頼みだ。

三木露風、野口雨情、サトー・ハチローの全集の詩と解説をよんだが、当時の作家たちキリスト教平民社の影響を受けている方々が多し。三木の詩、なかなかよいイエスさまの詩などもあった。雨情は土のにおいがちょっと。世俗的な表現もあり。すごい作品数だ。詩人と言われるには、これだけの詩作を積んでいるわけで、わたしなどは、芸術祭賞をとり、やなせたかしに詩をひろってもらっても、真摯な創作を積んではいない。気まぐれなのだ。詩人といえるかもしれないが、足跡をしるすほどのものではないだろう。第一、賢治というすごいひとがいて、誰が出ようが付け足しにしかならないという感じが。

たいまつ

また早朝に除雪車の音。

ストーブ点火まえの室温4℃。教会へ行くか否か、すこし迷ったが、すでに駐車場を除雪していらっしゃるだろうし、またストーブをもう一台準備して、座る椅子のところに置いてくださっていると思い、また息子たちや病気の方々のためにと思うと、これは休まれないという気持ちになり、1週間に2日も教会に時間を費やすることにためらいもあったが、行くことにする。実際42年間のほとんどをこのようにしてきたのだ。今思うと驚くべきことでもある。詩篇の学びとお祈りだった。
ただ、いまは世界中で、修道院無人になったり、教会が閉鎖されたりが相ついでいるが、この世の中に、まことの神の奉仕者がいなくなったなら、暗黒がはじまる、そんな気がする。松明を灯し続ける人々、教会がなくてはならないのだ。感動は神の共感だと思っているが、神の共感を得られない人類は、恐らくは存在する必要がないだろう。

 

午後は、運動の必要を感じ、近所の方を誘って、デパートまで歩いた。買い物はしない。画廊を見て、5階にあるベンチで休んできただけ。それが、そのベンチにずっと座っていた男の人がいたのだが、私たちが帰る頃には、まだ他の人も近くに座っているというのに、ベンチに寝ころんだのだ。もしかすれば、体ばかりでなく、心も疲れていたのかもしれない。同じフロアーのすぐ近くに宝石売り場があり、男性店員が4人も、まったく客がいないにも関わらず、陳列ケースの前にきちんと、両手を組んで立っていた。社員養育が行き届いていて、きちんとした体制でいなければならないのだろう。そのすぐ近くでのことであったので、違和感があった。疲れている、世の中が、何かが、なんだろう、どうなってるのだろう。

 

 

昼近くに送信

朝食支度、食事、食後コーヒー、食器洗いが済んで、やっと落ち着いてPCを開けたのが10時。

きのう書き込んだ内容を半分削除。一般の方々に馴染みのない名前を10人以上も羅列されたのでは、読む気もしなくなるのでは、そんな気がしたからだ。歌詞を書き込むのは容易ではない。とても全文を書くスペースはない。それでも、何とか入れねばならないことも。

とにかく誠実にこの仕事をこなさねば。昼近くに送信。

 

きょう午後に文芸誌の責任者から電話。若干書き直したほうがいいのだろう。長く書き直すことはしない。短めに内容を詰めようかと思う。11日期限。

 

主人は水関係の原稿を終了。

 

姉たちふたりがクルージングを申し込んだようだ。10日間。

 

はしょってはしょって

午前中は読書、午後会議、ついでにすこし歩いた方がいいと思い、アーケード街まで、けっこうな距離を歩く。11時半まで原稿書き。随分とはしょってしまって、これじゃ内容がほとんどわからないんじゃない、頭かかえ、かかえ、なんとかかんとか打ち込む。夜、姉から電話。