もう一人

今朝、西口に息子を迎えに行く。5時45分のバスで着く。収入があったからといって

倹約できるところは倹約する、これはとてもいいことだ。それが、体が冷えたとかで、風呂に入りたいと。やっているところがなく、近場の温泉にでも連れていくといったところが、そこまでしなくていいと。結局すぐ帰って朝食を摂り、一休み。1時間もすると仕事の電話。何と原稿依頼だったようだ。頼まれた2本を書き終えたばかりだから、すこし休んでからにするといって、別な仕事を始めていた。

私は11時に間に合って、民生の動員、文化祭の陳列作業のために出かける。民生のYさんが、昼食どう? それにAさんが合流。3月でやめると思うと、この人間のできた人たちともお別れするのが残念な気がして、在籍の間は一緒に行動したいと思っている。話は弾み、ついつい3時までお喋り。しかし民生の仕事上の様々なことがわかった。家では自分で食べていてくれるといったことに甘えた形。まあたまにはいいだろう。

 

帰宅すると、温泉といっても息子も忙しく、近場の、ということになり、開運の湯へ。空いていたのでほっと。

 

以前よく投稿していたブログ、その方の先人に対する見解が違っているのではと思われたので、もう投稿はやめたのだが、心は痛むけれども、迎合してはならないという気がする。特に、反キリストであること、神なしとする世界、つまり何でも許されるという世界観であると思われる、それが、教会に43年通い続けたものには、肯ぜない理由なのだ。そして宗教観から犠牲を払う人間を「お馬鹿さん」だと笑っている。怒りなどの感情はおきないけれども、迎合はできない。事情がわかって、その心情は理解できても、それを支持はできない、そういうことなのだ。反キリストを支持することは、即ち、自分が反キリストであることになるからだ。

 

何れいつでも自分の行動の証は立てられるようにしよう。何月何日何時何分、あなたはどこで何をしていましたか? と訊かれたときに、きちんと答えられるようにだ。

 

あとは、そう、Kさんから28日にもう一人連れて行きたいとの電話があった。これはうれしいこと。