異常

大曲花火当日。次男とは盛岡駅で11時20分に合流。何年かぶりに一家4人で大曲へ。去年は、次男は行けなかった。ことしは休めたようだ。行きはよいよい、新幹線はよい、しかし帰りの待ち時間は! よく皆がじっと我慢しているもの。それでも折り畳み椅子持参で、主人と私はそれで乗り切る。息子たちは立ちっぱなし。

 

次男から、将来のことを様々聞かされ、ちょっと心配もあったが、今朝のことば「しかしついには上から霊が私たちの上に注がれ……」により頼む。ほかに頼むものがないものはこのように神により頼むのだ。しかし、聞いた人物は、職業をしっかりと現実に即して考え、つかみ取ってきたようだ。

 

私が資料、調査関係にすこし関わっていることで、どうも研究者、教授と付き合いがあるかと錯覚している人があるが、それは皆無。私は、電話一本入れない。それは非常識なほどとわかっていてもだ。あとが煩わしい。礼を尽くした応対などはできそうにない。それに、この年になったら、もう付き合いは増やさず、何事もシンプルに行いたい。そういった付き合いをして何かを得ようとも思わない。

 

それにしても世の中には想像もできないような付き合いが種々あることに、この年になって気づき始めている。聖書のことばを言うがゆえに憎まれることはたしかにある。真逆をまことしやかに言われ、あっと気づくと、自分がスポイルされていることにたじろぐ。そんな感じだ。

 

きょうは午前教会。教会も厳しい状況になってきている。何とかよい展開があればいいが。午後は墓参り。この地域で、孤独死された方の無縁塔にお参りし、力が及ばなかったことを心からお詫び申し上げた。

立派などでかい墓、無縁塔、この間の差、違いに昔は感傷的になり涙したものだが、いまこの時点に立って、差など何もないという気がする。貧しくとも頑張って生きた方々、またさまざまな形に追い込まれていった方々、どちらが、どう立派であるか立派じゃないかなんて、誰にも言えることではない。

 

いまニュースで、東京38℃だったそうな。7時ニュースだ。異常、異常、異常、異常にならされる異常な世の中になった。

 

きょうは教会の花係。そして花が教会に、墓にとけっこう庭のもので間に合っている。主の庭。いつまでここに住んでいられるだろうか。