天の配材

2日、土曜日のきょう、すばらしい天気。

クルマを修理に出す。保険のついた代車を借りられるらしい。

主人は、農業講座を受けに、東北農試に。きょうが平日とちょっと勘違いし、R子に電話をすると、きょう盛岡に出て映画を見るのだとか。

朝から庭の整備。10時にPC開く。ブログを3件あけて、その一つに、ああ、最初の予測通りだなと。たぶん、世界の果てまでも行くのだろう。次はフランスか、ロンドンか。しかし彼女が、どれほどに助かったかがわかる。天の配材というものかもしれない。片や何事も苦しみながら苦しみぬいて生きるのが私の人生の真骨頂と理解する。

私はやはり、神をないがしろにはできない。そして、私のために誰かが切に祈っている。それで、いつもすんでのところで道を外さずに済んできたように思う。

 

N・Sさんが言った「正しいものが苦しめられる」、私は立派な正しいものであるかどうか、それは、キリストの血の贖いによる義によって正しいといえる。とにかく私は祈られている。多くの人々によって。たぶん、私が顔を知らない多くの人々にも。