恐るべきはでっちあげ

ゆうべ二男がどうしているか電話してみた。いまマッタリしていたところだ、ちょうどいい、と言っていた。いちいち心配する齢ではないと思いつつ、このところの異常気象には心配させられる。二男にちょっと送りたいものがあったので、買い物にでる。引きこもりがちな、いつもの方を気晴らしにでもなるかと誘う。買い物を終えて、12時までに帰るには時間が余ったので、高松の池に白鳥を見せにお連れすると、もう何年も見ていないと言っていた。午後は原稿書き。なかなか取り掛かれないかった。1月に会う約束をしながらいまだに電話もしていないなと、Nさんに電話をしてみる。肺の方の検査は来月の26日とのこと。大事にいたらぬ事を祈る。わたしが忙しいだろうから電話するのを遠慮していたという。それからやっと原稿を手直しして、乗ってきたかと思うところに主人帰宅。5時だった。夕食準備に取り掛かる。

あすも-10以下になるらしい。シベリア抑留になった方々、よく帰還できた方々がいたものだ。多くは、やはり体力、気力が人並み以上の方々ではないのか。

仏に徴兵制、若者たちの反応は、何れも戦争の残酷さ、悲惨さ、非人間性を実際にはまったく知らないように見受けられた。どんなこともあり得るのが戦争だ。諸悪の坩堝だ。

きょう電話で話したNさんが言っていた。「人の悪口を言う人がいる。でっち上げてまで事実のように言う人がいる」と。怖ろしい事だが、事実そのような性癖の方々がいるのだ。幾たびも経験している。実際にしてはいないことを見たように人に話し、貶めて満足、或いは自分の心の救済となしている、そういう方々はたしかにいる。

わたしが備忘録をつけているのも、万が一そのような立場に立たされたときに、開示するためという側面もある。怖ろしい世の中だ。またそういう仲間に囲まれて何かをしなければならないとしたら、なんという人生、なんという不幸なのだろう。ただ、そうとわかっていても、ダイレクトに指摘できる場合は少ない。訴訟に発展するケースもあるだろう、しかし、多くは、泥仕合になることを恐れて我慢する、見て見ぬふりをする、知らぬふりをしてすごすということになる。それが人間界の大方のようにも思う。