聖会

きのうが盛岡さんさ踊りの最終日。夜の街を見るのは、息子が帰るときに駅まで送っていくときぐらい。ほんとうに夜の外出がない。たまには夜景でも見ながらディナーをと思うも、主人にはそういう発想がまったくない。東京に行ったときに、息子が、コンサートの前に食事をし、コンサートの後で、帝国ホテルのロビーでカクテルを取ってくれたが、楽しいひと時だった。

 盛岡ではそんなこともなく、しかし今は、隔週の原稿800字を書くという、退屈をせずに済むいわば、良い緊張感の伴う“おもちゃ”を預けられて、日々を有意義に過ごすことができる。現代は何でもある程度までPCで出てくるが、しかし、近代は、まだまだ未開の分野ともいえる。PC情報では取れないことが多く、地方の事とはいえやりがいはある。

 

 2日、朝8時1分発の新幹線で、仙台で乗り換え、郡山に9時半着。9時50分のバスに乗り遅れ、11時40分のバスで、教団のセミナー会場へ。バス待ちの間、文庫本を一冊、大方を読み終える。2日は、S姉妹と同室。S姉妹の娘さんが帰った後を使わせていただいたわけだが。彼女は、ぐっすり。結構いびきが。朝まで熟睡できないままに目覚める。朝のお祈り会のメッセージが素晴らしかった。14時半の新幹線でS姉妹、T姉妹と共に帰途につくが、T姉妹の夫が手術しなければならない連絡が入り、急遽、仙台でT姉妹だけが早く着く電車に乗り換え、急いで盛岡に向かう。自身も病の中にありながら。心が痛んだが、明るい彼女の表情ではあった。

 

 他のブログで、県下作家の出版パーティーの模様を写真で見たが、葉書を欠席にして出したことがすこし残念でもあった。しかしいくつもある出版パーティー、合評会と称するものに参加していては、教会のことが手薄になる。献金のため、教会の集会出席のために、多くのものを手放してきた。今は亡きMさんの出版パーティーのときも、これは行かねばと思っていたところ、教会の特伝とぶつかり、特伝の方に行き、Mさんには謝ったのだった。なぜか、自分がこれは行きたいと思った事と、教会の行事が重なったりする。神様に試されているのかもしれないと思う一方で、多くの方々に無責任、非協力的の烙印を押されてもいる。初めて切ない気持ちになっている。葉書を欠席で出した時点で、仮に自分が今後本を出版したとしても、もう自分の出版パーティーは無いことを覚悟。他人様を集めて華やかにやらなくとも、自分の労作が、一冊、図書館の書架に、国会図書館にのこる、それだけでいいと腹を括る。華やかな世界とはこれでおさらばだ。

 

 ただ、どうしても出なければならない出版パーティーが明日待っている。静かに参加してこようと思う。