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文學界2月号読了

文學界をまずは一通り読み終えた。「最愛の子ども」、疑似家族の愛のありよう。どんな人間関係も疑似家族として態を為すことができるという奇抜さ、面白さだろうか。4年ぶりの新作320枚。これが、巻末の小説月評にあるような前衛的なものといえるのかどうか。自分の固定観念が許容するかどうかなぞは、ここでは論外なのかもしれない。一つのモードの更新として読んだ。「毛沢東の家」、毛沢東は、日本人がニュース、書籍で把握しているのと、中国の方々との捉え方とには格段の差があるだろう。たとえ一つの観光施設として観るに堪えないものであっても、それが中国を解放した神のごとき人の遺したものであれば。「分岐」で謂わんとしていることがいまいち捉えがたかった。「托卵」、赤ん坊の取り換え事件かと思ったが最後に取り換えられてはおらず、思い込みと妄想に支配される母親。「撞木」、娘がシュモクザメに下半身を食いちぎられるというショッキングな事件から始まるが、シュモクザメの、消化に時間がかかる、異物を吐き出すといった生態を逐一調べてから、物語を構築したように思う。サメではなくとも、生物、動物とのかかわりに於けるこのような小説を書けたならと思わせられた。「石牟礼道子を語る」、水俣病を記す作家として有名。読まずして語るに参加するでもなかろうと、きのう夕方、近くの古書店で探したがなかった。「障害」とは書かずに「障碍」と書くのだと教えられる。「石牟礼道子は、患者たちに『仕える』ことで、大いなる智慧に触れようとした人だ。」とあり、「切実にして謙虚な、その姿勢。それが『苦海浄土』を、晴れやかで広々とした書物にしている。」と。パラリンピックにも話が及んでいる。障碍という個性とともに暮らす社会にあって、視座を与えられた。「トマス・アクィナスの沈黙」、私はこれは非常によくわかった。1273年にトマスがミサの中で深い宗教体験をしたという。そして、『神学大全』は未完となる。自分の書いたものなぞというほどの宗教体験に羨望を覚える。そして自分がまがい物であり、偽善的であること、このような文學界の感想を書いているあたりは、いよいよ偽物くさいと思わせられたのだ。他短編、続き物の数編、辞書を、といってもすべてはPC検索に頼っているが、読めぬ漢字にも出くわしながら目を通し、読了とする。

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きょうは一日雨。春一番が吹く。終日家にこもる。